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アセンズ()は、アメリカ合衆国ジョージア州の北東部に位置する都市であり、クラーク郡とともに統合市郡を形成している。ジョージア大学がある大学町であり、この大学がアセンズの創設とその後の成長に深く関わってきた。1991年、前年の住民投票結果に従い、当初の市としての認可を棄てて、クラーク郡と共に統合市郡を形成した。現在は集合的にアセンズ=クラーク郡と呼ばれる〔Athens-Clarke County Unification History 〕。2010年の国勢調査で、この統合市郡の人口は115,452人となっており〔State & County QuickFacts, Athens-Clarke County (balance), Georgia , 2011-12-24閲覧〕、2000年の100,266人に比べて15%増加した(ウィンタービル市全部とボガート市の一部を除く)。アセンズ=クラーク郡としてジョージア州では5番目の都市であり、アセンズ=クラーク郡都市圏の中心都市である〔U.S. Whitehouse OMB Bulletin No. 05-02 Appendix (Code 12020 *) 〕。都市圏人口は2008年で189,264人である。 == 歴史 == 18世紀後半、オーコーニー川の岸の現在アセンズとなっている場所にシーダーショールズと呼ばれる交易拠点があった。1785年1月27日、ジョージア邦議会がエイブラハム・ボールドウィンの提案した邦の支援する初めての大学としてのジョージア大学設立を許可した。その16年後の1801年、大学の信託理事会委員が当時ジャクソン郡に入っていたシーダーショールズ上の丘を大学建設地に選定した。同年7月25日、理事会の一人で後にジョージア州知事になったジョン・ミレッジがダニエル・イーズリーから633エーカー (2.6 km2) の土地を購入し、そこを大学に寄付した。ミレッジはギリシャのプラトンやアリストテレスのアカデミーがあった都市(アテネ)に因んで、その周辺地域をアセンズと命名した。 ジョージア大学キャンパスの最初の建物は丸太材を使って建設された。大学に隣接した土地区画が販売され、収益が大学の建物建設資金に使われて町が成長した。1804年に最初の卒業生が出たとき、アセンズのフロント通り、現在のブロード通りに面して3軒の家屋、3軒の店舗およびその他幾つかの建物があった。1806年に完工し、ベンジャミン・フランクリンに因んでフランクリン・カレッジと名付けられた校舎がジョージア大学とアセンズ市で最初の恒久的建築物になった。この煉瓦造りの建物は現在オールド・カレッジと呼ばれている。 アセンズは1806年12月に公式の町となり、3人の委員からなる政府が置かれた。大学が成長するにつれて町も成長し、綿糸工場が産業と商業の発展を加速させた。綿糸工場で名高いイングランドの都市に倣って「南部のマンチェスター」とも呼ばれるようになった。1833年、泥道に嵌ってしまう荷車にうんざりしていたジェイムズ・カマクが指導するアセンズの実業家集団が、ジョージア州で最も初期の鉄道、ジョージア鉄道を建設し、1841年にはアセンズとオーガスタを繋ぎ、1845年にはマーサスビル(現在のアトランタ)まで繋いだ。 南北戦争のとき、ニューオーリンズの武器庫が現在ではチコピー・ビルと呼ばれるものに移されたことで、アセンズは重要な物資供給中心になった。現在のカレッジとオーコーニー・通りの間にあるノースオーコーニー川の一部に沿って砦の跡が見られる。さらに、現在のメイコン・ハイウェイに近くミドルオーコーニー川を見下ろす場所で小競り合いがあったストーンマンの襲撃では幾らかの役割を果たした。アセンズは南部の多くの町と同様に、ジョージア大学入り口に近いブロード通りに位置する南軍の記念碑がある。 レコンストラクション時代、アセンズは成長を続けた。1872年8月24日の新しい市認可によって市長・市政委員会方式に転換し、ヘンリー・ビュース大尉を初代市長にした。ヘンリー・ビュースは南北戦争後の市の急速な成長の牽引者だった。市長になった後に鉄道会社に働きかけて地域に鉄道を誘致し、周辺社会の多くに成長をもたらした。解放された奴隷が解放奴隷局のような新しい教育の中心に惹かれて市内に移転してきた。これら新しい住民には「アセンズ・ブレイド」、「アセンズ・クリッパー」および「プログレッシブ・エラ」という黒人系新聞3紙が貢献した。 1880年代、アセンズはより人口密度が増して、市によるサービスや改良が行われた。1881年にアセンズ警察署が作られ、1886年秋には公立学校が開校された。1882年にはベル電話会社によって電話サービスが始められた。1885年からは道路の舗装が始められ、1888年にはラバに曳かせた馬車鉄道が導入されて交通手段も改善された。 アセンズは町がはじまってから100周年にあたる1901年までに大きく変わった。新しい市役所が1904年に完成した。アフリカ系アメリカ人の中流階級や専門家階級が「ホットコーナー」と呼ばれたワシントン通りとハル通りの角周辺で成長した。モートン・ビルにあった劇場では、映画の上映や、ルイ・アームストロング、キャブ・キャロウェイおよびデューク・エリントンのような著名黒人音楽家による公演が行われた。1907年、飛行機の先駆者ベン・エップス市郊外の丘でジョージア州では初のパイロットになり、そこは後にアセンズ・ベン・エップス飛行場になった。1908年には7階建てのサザン相互保険会社ビルができて、アセンズでは最初の高層ビルとなった。 第二次世界大戦のとき、アメリカ海軍が新しい建物を建て、滑走路を舗装して海軍パイロットの訓練施設として使えるようにした。1954年、アメリカ海軍は海軍補給司令部学校の建設地としてアセンズを選んだ。この学校はノーマルタウンの古い師範学校校舎に置かれた。現在は基地再編成および閉鎖計画の下でこの学校が2011年に他へ移転される計画である。 1961年、シャーレイン・ハンターとハミルトン・ホームズがジョージア大学初の黒人学生となったときに、アセンズは市民権運動の舞台になった。その3年後、レミュエル・ペンが町から負われてマディソン郡のコルバート近くで殺害される事件があった。1954年に「ブラウン対教育委員会事件」の最高裁判所判決が出ていたにも拘わらず、アセンズ=クラーク郡教育地区では1970年まで人種差別が行われていた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アセンズ (ジョージア州)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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